【閲覧時間:約6分】
【目次】
- ジャーナリズムの意味
- 巨大な力を得たジャーナリズム
- ジャーナリズムが国家を超える時
- 人間の性(サガ)
- 人はどこへ向かうのか
- 変わり続ける価値観
- 同じ価値観は存在しない
- 主張という不毛
- 不毛に見つけた希望というロマン
ジャーナリズムの意味
報道とは?
引用:https://dictionary.goo.ne.jp/jn/202329/meaning/m0u/
- 告げ知らせること。また、その内容。報知。
- 新聞・ラジオ・テレビなどを通して、社会の出来事などを広く一般に知らせること。また、その知らせ。ニュース。「報道の自由」
うん。どこを調べてもほぼこのような意味となっている。これはただの「行為」を表す言葉だからだ。
ジャーナリズムとは?
引用:https://dictionary.goo.ne.jp/jn/101388/meaning/m0u/
新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどにより、時事的な問題の報道・解説・批評などを伝達する活動の総称。また、その機関。
う〜ん。これはほんの表面的なことしか表現していない。ジャーナリズムは広く深い。ジャーナリスト各々が自分なりの定義を持っている。また、ジャーナリストではない人間も各々ジャーナリズムはこうだ、あるいは、こうあるべきだという考えを持っている。ジャーナリズムを一意に定義することはできない。それは当然なことだ。英語である「Journalism」には「ism:主義」が含を含んでいることから、ジャーナリズムは、「主義(意見・主張)」なのだから。ジャーナリズムにどんな意味を与えるのかは個人の自由ということになる。実際に「ジャーナリズムとは」で調べてみると、実に多くの方がその定義や意義、あり方を自分の考えに基づき自分の言葉で語っている。
巨大な力を得たジャーナリズム
2019年現在、世の中には様々なジャーナリズムが横行している。新聞、書籍、雑誌、ラジオ、テレビ、SNS、ブログ、各種インターネットサイトなどあらゆるものが「個人なり」の、または「組織なり」のジャーナリズムでもってして情報を常に発信し続けている。
それらは巨大かつ複雑なあらゆる経路(ネットワーク)を介してお互いに影響を及ぼし合っている。そして更に「カネ」という要素が絡むことで、そのネットワークは更に巨大化し複雑化している。そして誰もが全貌を把握できない、コントロールができない「うねり」というべきか、「流れ」というべきか、そういったものがいくつも生まれ「巨大な力」を持つ。
力を獲得したそのモノは「正」とされ、大衆はそれに飲み込まれる。ある時、専門家でもない素人がブログで適当に発信した記事が何かの拍子で拡散され力を得ることもあるだろう。それが世論という形で国家をも飲み込む力となることもあるだろう。なんともその影響力は絶大であることか。
ジャーナリズムが国家を超える時
日本という国家は、三権分立(立法、司法、行政)によって権力を分散させている。その国家権力の次に影響力があるものとして「ジャーナリズム」は第四権力と言われているが、世の中のネットワークがより巨大化し、より複雑化することで、想像できないようなとんでもないものが国家権力を超える日がすぐそこにきているのではないかと思える。現に国家に影響力を及ぼしてた事例がいくつも発生している。例えば、はてな匿名ダイアリーに寄せられた「保育園落ちた日本死ね」と題した投稿が大きな反響を呼び、結果的に国家を動かしたことはあまりにも有名である。そのように考えると、各個人が自由に意味を与えることができる「ジャーナリズム」は何と恐ろしいものであるか。
とはいえ、言論の自由・出版の自由などから「ジャーナリズム」に規制をかけることはできないあろう。では、自主的に規制をかけることができるかと言えばそれは不可能だろう。自ら影響力が大きいことを自覚し、プロフェッショナルとしてのジャーナリズムを持っているはずのマスコミュニケーション組織(新聞、書籍、雑誌、ラジオ、テレビ)ですら、いや、逆にプロフェッショナルであるが故に「カネ」には勝てない。また言論の自由・出版の自由を大きく掲げるマスコミが規制など自らにかけることは絶対にできない。個人であるなら尚更である。
人間の性(サガ)
報道番組ではそこに出演している解説者やキャスターなどの一個人の考えをあたかも正しいものと決めつけ、それを全面に押し出して放送し、ワイドショーでは出演者皆で対象をバカにしてあざ笑い、ニュースにならないようなことに執拗に注目する。企業はCMで華やかなタレントを使い、現物とはあまりにもかけ離れた宣伝を行い、個人は承認欲求を満たすためにSNSなどで正確性に欠ける情報を垂れ流し、動画製作者は動画サイトで無価値な情報に大げさなタイトルを付けて煽る。そういう私も同様だ。
そして人々はそれらに飲み込まれる。報道番組、ワイドショーは何か起こる度に各局同じ内容の番組を朝から晩まで流し、組織も個人も流行りのものに一斉に飛びつく。人間とはつくづくそういうものなのだと思い知らされる。「良い」「悪い」の話ではない。
人はどこへ向かうのか
それぞれの欲望を満たすことで生まれた多種多様なジャーナリズム群が人々を飲み込み国家権力を越えようとしている。だが、できてしまったこの仕組はもう誰にも止められない。ネットワークがあまりにも巨大かつ複雑過ぎているため、誰も把握できないし、制御できないのだから。
人々は行き先のわからない船に乗り、流れに身を任せることしかできないのだろうか。今、世の中は多様性というキーワードが声高に叫ばれ、新しい価値観が日々生まれている。そのため、より一層どっちに転ぶのか、どこに流されるのか全く予想することができない。
変わり続ける価値観
極端な話をするが、今後、殺人や戦争を肯定するという価値観になっている可能性だってゼロではない。実際、過去はそうであったし、身近な例では男女不平等が未だに残っているというあり得ない事実が現にここ日本では存在するのだ。
そうなって来ると、人類が現れたときから現在までと同等の時間軸で未来を考えた時に「正しい」「間違っている」とか、更に「正義」「悪」などといった価値観も全く意味をなさなくなる。過去の「正義」が現在の「悪」になっている例やその逆の例も数え切れないほど存在するからだ。
同じ価値観は存在しない
だが、長い時間軸で考えるまでもなかった。「今」という瞬間だけで考えた場合はどうか。「正しい」「間違っている」「正義」「悪」というのは必ず「私」という主語が存在するのだ。「・・・は、・・・だ」「・・・が正義だ」というのは、「(私は)・・・は、・・・だ(と考える)」「(私は)・・・が正義だ(と考える)」というように。「正義」「悪」という価値観は完全に個人に委ねられているのだ。つまり、誰かの「正義」は他の誰かの「悪」になり、その逆もしかりだ。立場や状況によって変わるのだ。
主張という不毛
この当たり前である事実をしばしば人は見落とすがため、不毛な争いが起こり、また盲目的に流されるのである。議論というのはこの立場や状況を合わせた上でないと成立しないのだが、そもそも立場、状況を合わせるというのは不可能なのだ。議論はなるべくして不毛となる。よくある討論番組やSNSの炎上などで皆が自分の立場で意見を発信する。その意見は「私の立場」「私が思うあなたの立場」「私が思う男性の立場」「私が思う女性の立場」「私が思う若者の立場」「私が思う老人の立場」「私が思う日本人の立場」「私が思う人類の立場」「私が思う人間という生物種の立場」での意見である。必ず「私が思う」という前置詞がつく。あなたが私と融合し、完全に「私」自身にならない限り立場や状況をあわせることはできない。従って、人により「正義」「悪」は必ず変わるため、議論は平行線しか辿らない不毛なものとなるのは必然である。
不毛に見つけた希望というロマン
というように時間軸の長さに関係なく、「正義」「悪」などといった価値観には意味がないことがわかった。皆心のそこではこのことをわかっているはずだ。しかし、不毛とわかっていても人は正義を叫ばずにはいられない。心のどこかで、奇跡を信じてしまうのではないだろうか。希望を持たずにはいられないのではないだろうか。そう考えた時、人類が生物的ヒエラルキーの頂点に君臨していることの理由を理解した気がした。
人間とはなんとロマン溢れる存在なのだろうか。
【もっと長い時間軸で大局的かつ深い洞察で人類のロマンを記した書籍をご紹介!】
30か国以上で刊行され世界的なベストセラーとなり、「ウォールストリート・ジャーナル」など主要紙が称賛している。また、ノーベル賞を受賞した行動経済学者のダニエル・カーネマンを感銘させ、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグも「今年の1冊」に選び、マイクロソフトのビル・ゲイツが「自分の考えを見直すきっかけになった」本として紹介している。こちら↓